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「『経済思想』第8巻序文」

『経済思想 第8巻:20世紀の経済学の諸潮流』

編集責任・橋本努、日本経済評論社、20065月刊行、所収

橋本努200605

 

 

 二〇世紀の経済思想は、「資本主義と社会主義の体制選択」という問題をその中心に据えてきた。資本主義と社会主義のどちらがすぐれた体制なのか。この問題に科学的な解答を与えることは困難であるがゆえに、思想信条ないし思想理念をもって自分なりの答えを体系的に紡ぎ出すこと――これが「経済思想」の中心課題とされてきたのであった。

 

 

では、あらためて問うてみよう。いったい、資本主義と社会主義のどちらがよい社会なのであろうか。このように問われれば、現代人の多くは迷わずに「資本主義」と答えるであろう。あるいは多少慎重な人なら「さしあたって資本主義」と答えた上で、これにさまざまな留保を付け加えるであろう。しかし二〇世紀を生きた良識ある人々は、このいずれのようにも発想しなかった。「社会主義には新しい可能性がある。社会主義体制のほうが、資本主義の社会よりもすぐれているかもしれない」――と、このように応じることが、思慮深い人々の判断であるとされてきたのであった。

現時点から考えてみると、この良識は驚くべき錯誤であったと思われるかもしれない。ところが二〇世紀と二一世紀のあいだには、思考法において大きな断絶がある。私たち執筆者にとって、二〇世紀とは同時代(contemporary)であるが、この時代はすでに「知の考古学」的な対象となりつつあるのだ。二〇世紀においてはまさに、社会主義の可能性を支持する見解が、知識人のあいだで強固な通念となっていた。とりわけ一九一七年に世界初の社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が成立して以降、この国家が崩壊する一九九一年までの約七四年間は、思想的には「社会主義の黄金時代」であったといえる。カール・マルクス(1818-1883)の死後、マルクス主義の経済思想はさまざまに成熟し、また、非マルクス的な社会主義の思想も豊饒な発展を遂げてきたからである。これに対して資本主義を擁護する思想は、ほとんど発展するところがなかった。豊饒な社会主義思想とは対照的に、資本主義の擁護論はきわめて貧困であり、この思想的落差のなかで人々は、資本主義体制を容易に肯定しえなかったというのが二〇世紀の思想状況であった。二一世紀の読者はこの知の断層について、あらかじめ気づいておかれたい。

二〇世紀の経済思想は、社会主義に夢を託してきた。とはいえ人々は、ソビエト型の社会主義を手放しに賞賛したわけではない。多くの人々は、ソビエト社会に対していかなる幻想も抱いていなかった。それでもなお社会主義の理念が人々を鼓舞した理由は、この体制の実現可能性とは別に、およそ次のような事情があったからであろう。

一つには、市場経済を批判するための哲学的議論は、社会を管理する側の公務員たちの教養ないし存在理由(レゾン・デートル)として求められてきたという経緯がある。市場経済のみでは社会の秩序は保たれない。社会の秩序を維持するためには、市場経済を批判的・超越的に捉えることのできる人々が必要である。またそのような認識をもちうる人々に公務員の地位と名誉を与えて、彼らの英知によって社会全体を導いてもらう必要がある。実際、マルクス研究が花開いた日本社会においては、「信条的にはマルクス主義者」たる公務員が多く輩出されることによって、国民経済計画が導かれてきたのであった。マルクス主義の思想理念は、戦後日本の高度経済成長において、最高度に実現されたとみなすこともできる。戦後日本の経済的成功は、マルクス主義的な計画経済の思想に導かれた、といってもあながち誤りとは言われないであろう。

もう一つ、資本主義社会が高度に発展成熟するにつれて、反体制的なオルタナティヴの探究は、それ自体が私たちの社会を豊饒なものにしてきた、という事実を挙げることができよう。例えば、環境への各種の取り組みがなければ、資本主義社会は現在ほど魅力的なものにはならなかったかもしれない。現代の社会が現実的・思想的にその多様性を享受できるとすれば、それは私たちがこれまで、現体制のオルタナティヴを探究する社会主義の思想家や実践家に敬意を払ってきたからにほかならない。そして私たちが示してきたこの敬意は、現代社会を「生き方の幅」のある社会へと導く際の、道徳的な源泉ともなっている。人々はもはや、現体制の正統性にコミットメントを示さなくても生きていくことができる。現代社会は、反体制的な異分子たちの生活を包摂するだけの多様性を実現している。現体制に対抗して「もう一つの世界」を探る人々の思想的・実践的営みは、それ自体が私たちの多元社会の道徳的源泉として活かされている。

このように見てくると、社会主義の思想的意義は、「公務員の信条倫理(経済学批判の態度)」および「生き方の多様性の道徳的源泉」として、社会的に広く受け入れられてきたとみることができよう。しかし問題は、こうした問題領域においては社会主義のみならず、すでにさまざまな思想が主戦場を築いているという点である。公務員の信条倫理や生き方の多様性において、社会主義の理念がもはや優先権を持たなくなったとすれば、私たちはそこにいかなる思想理念を求めうるであろうか。

本書『経済思想』第8巻で扱う二〇世紀の経済学者たち――ヴェブレン、カレツキ、サミュエルソン、フリードマン、ハイエク、ポランニー、ガルブレイス――は、この問題に対してさまざまに応じてくれるだろう。ヴェブレンとガルブレイスはともに制度学派の経済学者として、現代の経済体制を遠方から眺める批評の視点を提供する。彼らの思想は、私たちの生活を豊饒化するための、さまざまな着眼点を与えてくれるだろう。経済社会を犬儒的かつ愉快に切り込みたい人はヴェブレン、経済社会を上質な生活者の視点から批評したい人はガルブレイスだ。これに対してポーランド生まれのイギリス修学者、そしてのちに国連でも勤務した経験のあるカレツキは、マルクス主義と統計学的手法の融合によって、ケインズ理論の先駆となった学者である。彼の独創的な理論展開は、ポスト・ケインズ派へと継承されている。一方、サミュエルソンは、近代経済学のパラダイム化を達成した巨匠であるが、彼の書いた教科書の最新版を手に取れば、その内容の豊富さに驚かされるであろう。サミュエルソンの関心は、例えば環境論にまでも及んでいる。フリードマンの思想は、民営化を基調とする政策運営の理念について、現代の公務員に求められる精神を与えているだけでなく、彼の学校選択論のアイディアは「生き方の多様性の源泉」として、左派の思想家たちにも受け入れられている。実にフリードマンこそ、生き方の多様性に感受的な経済学者であったと言えるかもしれない。また、経済人類学の視角を豊かにもちこんだポランニーの研究業績は、二〇世紀最大の思想的収穫であった、と私は考えている。とりわけポランニーの後期の思想は、まだまだ発展させていく可能性を秘めている。そしてハイエクの自生的秩序論もまた、たんなる市場擁護論にはとどまらない、豊かな発想の源泉を与えているように思われる。

以上、本巻では七人の経済学者にスポットを当てて、二〇世紀の経済思想を捉え返している。本巻は「二〇世紀の経済学の諸潮流」をすべてカバーするものではない。編者たる小生を除けば、本巻では日本を代表する気鋭の経済学史研究家たちに、それぞれにふさわしい経済学者について論じていただいた次第である。二〇世紀における他の経済学者の思想については、別の巻でも論じている。シュンペーター、ケインズ、ヒックス、スラッファについては第5巻、ヒルファディング、レーニン、ルクセンブルクについては第6巻、ウェーバー、ジンメルについては第7巻、そして日本を代表する経済学者たちについては、第9巻と第10巻を参看願いたい。本書第8巻では、主として英米の非新古典派系の経済学者たちを扱っているが、ただしサミュエルソンは近代経済学の巨匠である。もう一つ、本巻で論じる経済学者の多くは、移民であることにも注意を喚起したい。移民という境界人の発想が、異端経済学の探究を刺激している。(もっとも、ガルブレイスはカナダからアメリカへの移動に留まり、サミュエルソンとフリードマンは生粋のアメリカ人である。)

なお、本シリーズでは扱っていないが、二〇世紀の経済思想全体を見渡すためには、このシリーズで扱った人物の他に、とりわけG・ミュルダール、H・サイモン、A・セン、および、L・ミーゼスの四人を論じるべきであったかもしれない。また、二〇世紀の経済哲学者として最も高い評価を受けているG・シャックルやJ・エルスターについても、紹介すべきであったかもしれない。これらの思想家については、これから本格的な思想研究が待たれるところである。もっとも私は、経済思想研究の本義は、自らの思想を紡ぎ出すことにあるのであって、他の経済学者の紹介研究はその出発点にすぎない、という認識の原点に立ちかえりたい。本巻はいわば、二一世紀の経済思想のための出発点を与えている。読者は本書を踏み台にして、新たな思索の旅に出られたい。

最後になってしまったが、執筆者の諸先生方には、大変な力作を寄稿していただいたことに感謝すると同時に、編者の力不足ゆえに本巻の出版が遅れたことをお詫び申し上げたい。また編集者の谷口京延氏には、大変なご尽力をいただいた。ここに記して感謝の意を表したい。